「クレマン・ド・ブルゴーニュ」創設50周年を記念して、歴史家トマ・ラベ氏の研究成果をまとめた新刊書『発泡性ワイン、クレマン・ド・ブルゴーニュの特別な歴史』(Bulles, histoire singulière du Crémant de Bourgogne)が発刊された。5月15日、全国クレマン生産者連盟総会でトマ・ラベ氏が登壇し、記念講演会が行われた。

講演するトマ・ラベ氏(左)と、記念出版された新著『発泡性ワイン、クレマン・ド・ブルゴーニュの特別な歴史』(333ページ、45€)

「クレマン・ド・ブルゴーニュ」は、シャンパーニュに次ぐフランスの瓶内2次発酵ワインの代表格として確固たる地位を築いている。しかし、そのアペラシオンが誕生するまでには、品質とイメージの向上を目指した生産者たちの、数十年にわたる苦闘の歴史があった。単なるスパークリングワインを意味する「ヴァン・ムスー」という曖昧な呼称が抱えていた深刻な問題から、いかにして「クレマン」という新たな高品質カテゴリーが創設されたのか。その知られざる道のりを、近年の歴史研究に基づいて解説する。

第1章:危機に瀕した「ヴァン・ムスー」-栄光と陳腐化の狭間で

1950年代から60年代にかけて、フランスのスパークリングワイン市場は活況を呈していた。第2次世界大戦後の経済成長期、いわゆる「栄光の30年」のただ中で人々のライフスタイルは豊かになり、祝祭の酒への需要は飛躍的に高まった。世界のスパークリングワイン生産量は63年から74年のわずか10年余りで2倍に膨れ上がり、フランス国内では、71年についにヴァン・ムスーの消費量がシャンパーニュを上回るという歴史的な転換点を迎えた。輸出量においても、同年にはシャンパーニュとほぼ同等の約3000万本を記録するなど、その勢いはとどまるところを知らなかった。

しかし、この輝かしい成長の裏側で、深刻な危機が進行していた。最大の課題は、「ヴァン・ムスー(Mousseux)」という呼称そのものが抱える構造的な問題であった。かつて、フランスは世界のスパークリングワイン市場において圧倒的な覇権を握っていたが、70年代に入るとそのシェアは世界の生産量の6分の1にまで低下。ドイツの「ゼクト」や後に世界市場を席巻することになるイタリアの「プロセッコ」、スペインの「カヴァ」といった強力なライバルが次々と台頭し、フランス産スパークリングワインは激しい国際競争に晒されていった。

さらに根深い問題は、国内における「ムスー」という言葉の価値の陳腐化であった。ムスーという言葉の起源は、20世紀初頭のAOC(原産地呼称統制)制度の確立過程に遡る。1919年と1927年の法律によってシャンパーニュの生産地域が厳格に定められた結果、法的に「シャンパーニュ」とそれ以外の「ヴァン・ムスー」が明確に区別された。ここに、シャンパーニュ地方以外で造られるすべてのスパークリングワインを内包するヴァン・ムスーという広範なカテゴリーが誕生したのである。

問題は、このカテゴリーが品質の面で玉石混淆であったことだ。ブルゴーニュやロワール、アルザスなどで伝統的な瓶内2次発酵によって丁寧に造られる高品質なワインがある一方で、安価なベースワインに炭酸ガスを人工的に注入しただけの「ガゼイフィエ(ガス注入品)」と呼ばれる製品までもが、同じヴァン・ムスーの名で市場に流通していた。消費者にとって両者の品質の違いは判然とせず、次第にムスーという言葉自体が「安価で質の低いスパークリングワイン」というネガティブなイメージを帯びるようになってしまった。品質を追求する真摯な生産者たちは、自らのワインが正当に評価されないこの状況を「ムスーの轍」と呼び、そこから抜け出す道を必死に模索した。

ニュイ・サン・ジョルジュのワイン会館で開かれた記念夕食会で挨拶するクレマン・ド・ブルゴーニュ生産者組合(UPECB)会長のアニエス・ヴィトーさん

第2章:改革の狼煙-「クレマン」という名の光」

品質と誇りを守るための戦いは、静かに始まっていた。改革の第一歩は、1959年に全国瓶内2次発酵生産者連盟が農務省に対して行った一つの要求であった。それは、ワインラベルにムスーと記載する義務を撤廃してほしいというものだった。このささやかな、しかし象徴的な要求はすぐには受け入れられなかったが、まず「ヴヴレー」や「ソミュール」といった先進的なAOCで表示が任意となり、63年にはすべてのAOCヴァン・ムスーが任意表記になった。これにより、生産者たちは自らのワインをムスーという不名誉なレッテルから切り離す自由を得た。

この改革の潮流の中心にいたのが、後に「クレマンの父」とも呼ばれることになるミシェル・ラテロン氏であった。ボルドー出身でありながらロワールで活躍し、シャンパーニュの生産者とも深い繋がりを持つ彼は、63年に生産者連盟の会長に就任すると、ヴァン・ムスーの新たな地位を確立すべく、精力的に動き出した。彼のビジョンは明確であった。それは、単にムスーという呼称を避けるだけでなく、品質基準に裏打ちされた新しいカテゴリーを創設し、消費者に明確な価値を提示することであった。

そして65年、パリで開かれた連盟の重要な会議の席上でラテロン氏は歴史的な提案を行う。彼がムスーの代替案として提示した言葉、それが「クレマン(Crémant)」であった。クレマンとは、元来シャンパーニュで使われていた用語で、標準的なシャンパーニュよりもガス圧が低く、クリーミーで柔らかな泡立ちを持つワインを指していた。ラテロンはこの言葉に、高品質な瓶内2次発酵ワインの新たなアイデンティティを託そうと考えたのである。

この提案は、改革への道を照らす一条の光となったが、この時点ではまだ構想の段階に過ぎず、具体的な制度設計に至るには、さらなる時間と推進力が必要であった。

第3章:ブルゴーニュの決断-新アペラシオン創設への転換

全国レベルでの改革の動きが停滞する中、事態を大きく動かしたのはブルゴーニュ地方の生産者たちであった。彼らは、ほかのどの産地よりも「ブルゴーニュ・ムスー」という呼称がもたらすイメージの毀損に苦しんでいた。1970年、INAO(国立原産地名称研究所)のブルゴーニュ地域委員会は、この問題に正面から取り組むため、ヴァン・ムスーの品質向上を目的とした特別委員会を設置した。

「ルネ・シュヴィア」「ジャン・フランソワ・ドロルム」「ベルナール・バルビエ」といった情熱的な生産者たちが中心となったこの委員会は、2年間にわたる徹底的な議論と研究を重ねた。彼らがとくに重視したのは、スパークリングワインの品質の根幹をなすベースワインの改革であった。どのブドウ品種を用いるべきか、収穫の申告をどう制度化するか、醸造方法をどう規定するか。彼らは、シャンパーニュに匹敵する品質を目指し、72年にブルゴーニュ・ムスーのための全く新しい、厳格な規定書の草案をまとめ上げた。

当初の目的は、あくまで既存のブルゴーニュ・ムスーという枠組みの中での品質向上であった。しかし、このブルゴーニュの先進的な取り組みは、ミシェル・ラテロン氏ら全国の改革派の注目を集めることになる。彼らはブルゴーニュの生産者たちに、単なる品質規定の改訂にとどまらず、呼称そのものをクレマンへと変更するよう強く働きかけた。さらに、彼らは極めて戦略的な提案を行った。それは「ブルゴーニュ・クレマン」ではなく「クレマン・ド・ブルゴーニュ」という呼称を採用することであった。この呼び名の違いには、レストランのワインリストにおける掲載場所の確保という、マーケティング上の深謀遠慮が込められていた。ブルゴーニュ・クレマンではブルゴーニュワインのカテゴリーに埋もれてしまうが、クレマン・ド・ブルゴーニュならば、シャンパーニュと同じスパークリングワインのカテゴリーで消費者の目に留まるという狙いがあったのである。

この提案は、ブルゴーニュの生産者たちの心を動かした。そして73年4月、ディジョンで開かれた生産者総会において、歴史的な決断が下される。新しい規定書の名称はブルゴーニュ・ムスーからクレマン・ド・ブルゴーニュへと変更されることが満場一致で採択された。これは、単なる呼称の変更ではない。既存のアペラシオンの改良ではなく、全く新しいアペラシオンをゼロから創設するという、フランスワイン史における大きなパラダイムシフトの瞬間であった。

講演会をオーガナイズしたクレマン・ド・ブルゴーニュ生産者組合(UPECB)事務局長のピエール・デデュ・クエディク氏(右)と全国クレマン生産者連盟(FNPEC)会長のドミニック・フュルラン氏(左)

第4章:全国的な連帯とシャンパーニュとの対話

ブルゴーニュの決断は、ドミノ効果となって他の産地へと波及した。ブルゴーニュで練り上げられた厳格な規定書は、全国的なモデルケースとなり、ロワールやアルザスといった他の主要なスパークリングワイン産地も、この新たなクレマンの枠組みに参加する意向を表明した。改革は、一地方の取り組みから、フランス全土を巻き込む一大ムーブメントへと発展していったのである。

しかし、その実現には最後の、そして最大の障壁が残されていた。それは、クレマンという言葉の発祥の地であるシャンパーニュの同意を取り付けることであった。シャンパーニュ生産者にとって、クレマンは自らの歴史と伝統の一部であり、それを他の産地が使用することには当然、抵抗感があった。

交渉はINAOの全国委員会を舞台に行われた。ミシェル・ラテロン氏がその人脈と交渉力を駆使して、粘り強くシャンパーニュ側との対話を続けた。意外にも、シャンパーニュ側はこの提案に戦略的な利点を見出していた。当時、シャンパーニュは世界的な需要の急増により、AOCシャンパーニュ内でブドウ畑の拡張圧力が高まり、対応に苦慮していた。高品質なスパークリングワインを求める市場の受け皿として、クレマンという新しいカテゴリーができれば、シャンパーニュへの過度なプレッシャーを和らげ、同時に自らのブランド価値を維持することに繋がると考えたのである。彼らはクレマンを、最高品質の発泡性ワイン、シャンパーニュと、安価なムスーとの間に位置する、信頼できる高品質なワインカテゴリーとして認めることに合意した。74年2月、INAOの委員会において、ついにシャンパーニュ側から正式な使用許可が下り、クレマン誕生への道筋が開かれた。

第5章:法制化への最終章 ― 政治の舞台裏と改革の結実

INAOでの技術的・制度的な合意形成を経て、次は法制化である。ここでもまた、舞台裏と公式の舞台で、緻密な戦略が展開された。

舞台裏で暗躍したのは、ブルゴーニュ(ヨンヌ県)選出の若き有力政治家、ジャン=ピエール・ソワソン氏であった。彼はヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の側近であり、地元の有力生産者とも深い繋がりを持っていた。彼は自らの政治力を駆使し、クレマン設立が円滑に進むよう、政府内で根回しを行ったとされる。

一方、国民議会(日本の衆議院に相当)という公式の舞台で議論を主導したのは、ミシェル・ラテロン氏の地盤であるロワール地方選出の議員たちであった。彼らは、クレマンがフランスのスパークリングワイン全体の品質向上と国際競争力強化に不可欠であると熱弁を振るった。この改革案は超党派の支持を集め、大きな反対もなく、75年7月4日、クレマンという用語の使用をAOCワインに限定し、その品質を保護する法律が可決・公布された。

この法律に基づき、同年10月17日、ついに「クレマン・ド・ブルゴーニュ」と「クレマン・ド・ロワール」のAOC設立を正式に認める政令が公布された。翌76年には「クレマン・ダルザス」がこれに続き、59年の最初の問題提起から16年の歳月を経て、生産者たちの悲願であった新しい高品質スパークリングワインのカテゴリーが誕生したのである。

結論

アイデアの萌芽から法制化、そして市場での成功まで、実に半世紀近くにわたる長い道のりであった。クレマン・ド・ブルゴーニュの物語は「ムスーの轍」という逆境の中から、品質への揺るぎない信念と長期的なビジョン、そして産地を超えた連帯によって、いかにして新たな価値を創造できるかを教えてくれる。今日我々がグラスに注ぐ1杯のクレマンには、フランスワインの未来を切り開いた改革者たちの、情熱と誇りが溶け込んでいる。